自分が今、夢の中にいることに確信を持った。
思い出によって構成された街路を宙に浮いた感覚で通り過ぎる。行き交う人々の顔はことごとく人間である以上の感想をもたらさないほどに翳んでいた。その中で自分だけが一人実体を持って立っているような――それでいて夢特有の客観的な視点から呆けたように前へ前へと進んでいる。
やがて風景が変化した。整然と区画された街から地の果てまで続いてるような砂漠へ。しかし街路と同じく人は列を成しているかのように自分の周囲を通り過ぎていく。
その中で一人、立ち止まる。
人は通り過ぎていく。見ていると、その中に自分と関わりを持った人物が見受けられた。ついこの前意気投合した『空前絶無』の酔客。グランドバザールで果物を買い食いした店の店主。炎術師の同胞団に新たに入った術師――一年前、偶然にもパーティを組むようになった仲間達。
皆、生気も表情も抜け落ちた面持ちでゆっくりと行進していく。何故か自分にぶつかることはない。エアーポケットのように自分の周りだけぽっかりと空間が空いていた。
仲間達が通り過ぎた後は、さらに古い記憶からほじくりかえされた人々が歩いてくる。丸々と太った初老の商人。酷く憔悴した表情の痩せぎすの男。真っ赤な髪と真っ白な顔が印象的な魔術師。何故思い出すことがこんなに久しいのだろう、と不思議に思うほど彼らは自分の人生に影響を与えた人物だった。そんな彼らが自分に何ら反応を見せずに歩いていくのを、気味悪く感じながらも見送った。
列の終わりが見えてくる。それと同時に周囲の風景が黒沙に覆われるように黒ずみ、変わっていく。赤炎に混じって黒炎が乱れ飛び、オブジェクトのような亡者が磔刑の状態で火に炙られている。一般的に想像されるような、獄だ。
暑くはない。視覚と聴覚以外の感覚が断絶されているようで、自分が今どんな大地に立っているかすら曖昧だった。自分がこの先獄に行くことがあったなら是非全ての感覚が閉じられていればいいのに、と切に思う。
そしてさらに思う。この静謐な行進が終わりに近づくにつれ古い記憶の人物になるならば、終点にいる人物は誰になるのだろう、と。父も母も知らぬ人生だが、自分がこの世に存在するということは木の股から産まれる人種でない限り、いた、ということになる。そんな彼らがこの行進の殿にいるとしたならば、是非とも拝んでみたいものだ。 そう半分面白がるような心地でいると、ふと自分から見て右側を通り過ぎていく人影が目に留まる。ヴェールに覆われているウェーブがかった髪は黒く、顔立ちは、ふっくらとした唇、大き目の瞳、といった柔らかめの印象を与える要素に反して鷲鼻気味の尖った鼻梁が鋭い印象を与えている。彼女が身を包んでいるのは婚姻の際に着用する儀礼服だった。しかし世間一般の婚姻適性年齢に対して彼女は幼すぎる容姿に体躯であった。それもそのはず、と何故か罪悪感を孕んだ思いが胸に去来した。
彼女を見送る。自分でも意外だと思うほどに心は静かだった。夢だということを確信していたからだろうか?それとも、自分の人生において感情の起伏を感じないほどに彼女は重要な人物では無くなったということか?どっちだろう。どっちでもないのだろうか。
彼女は通り過ぎた。
彼女に関する思考を打ち切った。次の、考えるべき人が来た。





〈偽りの空〉がインク壷をぶちまけたような暗闇から薄っすらと赤味がかったオレンジへと変わっていく。太陽の無いジャハンナムにおいて地上で見られるような『朝焼け』とは少し違うかもしれないが、ジャハンナムでもこの現象をそう呼んでいた。
赤らんでいく空と同時にむくりと起き上がる影がある。布団の代わりに身体を覆っていた白い紙の束がバサバサと雪崩落ち、眠気眼がそれを見て顰められる。めんどくさそうに、しかし慣れた手つきでそれらをまとめぞんざいに床の上に積み上げると、その人物――全身を黒衣で包んだいかにも怪しげな人物は肩をコキコキ回しながら立ち上がった。
「余の寝具にしては堅いと思うたが……余は気絶しておったか」
見渡す限り書類の海に囲まれた執務室を見回してから呟く。彼を中心にこの書類の海は真っ二つに裂けていて、向かって右が決裁済み、左側が未決裁のものだ。そしてその量は圧倒的に右側の方が多く、処理したであろう人物――ジャジャラはそれらを目測で残りにかかるだろう時間をざっと脳内で計算する。
それにしても変な夢を見たものだ。床という硬さにおいては引けをとらない寝具のおかげで思い出したのか、はたまた掛け布団である書類の保温性に懐旧を覚えたのか、どちらにせよ昔の記憶が夢としてフラッシュバックしただけの話である。
ひーふーみー通り越しておっくせんまん。書類おばけが見えてきそうだ。元々この仕事は数人がかりでやるはずのものだったのだが、この男を除く全員が『この程度の仕事はジャジャラ様の偉大な御力にかかればこんな書類(の山)の一つや二つ、我らのような凡庸な者どもが出る幕も無いだろう。いやさすがジャジャラ様!天晴れジャジャラ様!!』と言って辞退し、そしてそれらの言葉に気を良くしたジャジャラが二つ返事で承諾したので、体よく押し付けられた、ということだ。進んで承ったので押し付けられているという表現は可笑しいかもしれないが、このような光景はここ最近の界螺ティオース支部にて支部長と支部長補佐の自由と個人の尊厳と命をかけた追いかけっこ並に珍しくはない。そしてそれを止めるような希少な人材もいなく、むしろそれを見て自分もあわよくば、という者が急増し、最近は今回のように仕事中に気を失うほどオーバーワークになりつつある。しかし、かと言って放り出すことなど以ての外だ。
王たる者、民草の言葉には耳を傾けねばならぬ。
正確には彼らはジャジャラの臣下ではなく界螺ティオース支部の構成員なのだがそれらの事情は脳ではなく脊髄辺りに送られたに違いない。彼の思考は――ジャジャラに言わせれば、『高貴なる余の考えが下賎の者に理解できるはずがなかろう』ということだが――直訳すればやはり『変』というカテゴリに入るということなのだろう。まあ享受者には頭のネジが外れたような、否、少しばかり変わった人間が多いので別段気にすることではない。ジャジャラ自身を取り巻く仲間達がその良い例だ。それにその性格が支部に大いに貢献することになっているので指摘しわざわざ矯正しようとする者もいない。つまり、彼と言う存在がこの界螺ティオース支部に受け入れられているということだ。そこに至るまでかなりの要約が必要だが。
そして名誉か不名誉にか、一応存在が容認されている自称・黒炎王は、殆ど捌いたとはいえまだまだ残る書類の山にまず先にお腹に何か入れるのが先だと判断し、執務室を後にした。





かの大災害はティオースに歴史的にも物理的にも大きく傷跡を残したが、そこから芽吹いた復興という恵みは少なからずとも改良を伴ったものであった。ティオースという都市国家の首都に位置する界螺ティオース支部。それは古くから続く老舗の宿屋をカモフラージュとしていて、かの大災害で支部としての機能が危ぶまれるほどの打撃を受けてから名実共にティオースの裏社会を牛耳る組織として不死鳥の如き復活を遂げていた。
何もかも新しくなった――支部長補佐による新しい試みも含め――界螺ティオース支部に加わった新要素。界螺直属というわけでもなく一般人でも気軽に利用できる、宿屋一階に位置する喫茶店。かの大災害を鎮圧した英雄の一人が経営しているそこは天使の愛らしい笑顔と美味しい紅茶とそれらによる癒しを求めて結構な人数を集めていた。
――彼女を知るジャジャラにとっては彼女に癒しを求めることなど物理的以外に有り得ない、と思っているのだが。いつか支部長補佐も言っていた。『知らないというのはとても哀れで幸せなことだな』と。
しかしそれを差し置いても界螺ティオース支部の真上に位置するこの喫茶は非常に便利である。店主である天使――ハーフィズ自身がティオースの中核メンバーであることも含め、界螺構成員にとっては非常に使い勝手がいい。かく言うジャジャラ自身も彼女と馴染みということも手伝ってモーニングサービスの時間帯はここで朝食を取ることにしていた。
「おはようです、ジャジャラ」
「うむ、モーニング・ジャジャラ様スペシャルを一つ」
鷹揚に頷いて注文だけを告げ、いつもの特等席である街が一望できるテラスに去っていくジャジャラを見てもハーフィズは文句一つ言わない。見ると結構な朝早くだというのに店内にはまばらに人影がある。お天道様を拝めないような人間が夜の仕事を終えこの喫茶で朝食をとってから家路に着く。そんな光景がこの店ではざらなのだ。
注文を受けたハーフィズは手早く『モーニング・ジャジャラ様スペシャル』の用意を始める。メニューには載ってないこのオーダーは、彼自身が考案し作り出した裏メニューである。
理由は、王だから。
その申し出にハーフィズはニコニコと二つ返事で了解した。値段を普通のモーニングセットの倍近くに設定して。
しかし実際その中身は味付けが彼好みのこと、そして食器にジャジャラ自身が買い求めてきた銀の食器(ハーフィズは皿洗いの最中これが銀メッキだということに気付いた)を使っていることぐらいで他のモーニングセットと大差ないものであったりする。
「おまたせです。昨日も仕事だったですか?」
普段なら椅子がひっくり返る寸前くらいまでふんぞり返ってるジャジャラが大人しく掌を膝の上に置いて座っているのを見てトレーから『モーニング・ジャジャラ様スペシャル』をテーブルに移しながら問う。斜め45度に傾げられた首と半分白目を剥いた目がハーフィズの登場でカクン、と元に戻る。
「うむ、王たる者常に善政を引かねばならぬからな。余を拠り所にする民は多いから必然的に仕事も多くなる」
拠り所、ではなくカモだろう、ということはあえて口にしない。
「それはお疲れ様なのです。王様というのは大変なのですね〜」
「なに、余のような偉大な王にとってはこれしきのこと、労苦の内にも入らぬわ」
フハハハハハ、という笑い声が早朝の店内に寂しく響き渡る。朝が早いので人のまばらな店内で声を荒げるような輩もいなく、小さな寂鬱感に襲われたジャジャラは咳を一つして『モーニング・ジャジャラ様スペシャル』の攻略にかかった。
「そういえば最近妙に忙しくありませんかー?」
人も入って来ないようなのでジャジャラの対面の席に腰掛けたハーフィズがふと思い出したように言う。
「?余はいつも通りだが?」
ああそういえばこいつは常時体よくカモられていたんだっけ、と少しばかりの同情を込めた視線で見る。
「フィズフィズはこうして店を持ってるから極力仕事を回さないようターラーにお願いしたのですよぅ。でも…三日前くらいに一番忙しいという時間帯に無理矢理引っ張り出されたのですよ」
「……大丈夫だったのか?」
ハーフィズを呼びに来た構成員は、という言葉は『モーニング・ジャジャラ様スペシャル』と共に飲み込まれた。そしてその言葉にハーフィズは愛らしい天使の頬をぷくーっと膨らませて非常に可愛らしい怒り顔を演出した。
「大丈夫じゃないですよう。フィズフィズの店はお客様に出すもの全部フィズフィズが作ってるのですよ!?急に一方的に『集合』なんて言われてもすぐお店を畳めるわけがないじゃないですか“ただでさえ一番お客様が集中する時間帯だったのに酷いです!思わず【猛り滅ぼす炎】(フレイムパイソン)放ちたいくらいでしたよぅ!」
「おい、放ってないよな!?」
「当たり前ですよぅ。そんなことしたらただでさえこの前ので減った構成員がさらに少なくなっちゃうじゃないですか。そんなことしたらターラー達に怒られるですよぅ」
咄嗟に、ニコニコ笑いながら、ただし目は笑っていない支部長補佐と拳と瞳を発光させながら背後から迫る支部長の図がジャジャラの中に浮かぶ。恐怖だ。恐怖そのものだ。どこぞやの上級邪霊などメじゃないくらい物理的精神的ホラーだ。
想像の中でそれらがジャジャラを追っかけてくる前に思考を切り替える。ハーフィズが召集されたと言う三日前というと自分は確か…書類を決裁するため一人であの執務室に篭り始めた頃だ。あれ以降朝と夕の飯、そして厠・浴場くらいしか外に出ていなかったはず。ハーフィズが呼ばれるほどの何かがあったとしたら自分にも話がいくと思われる。それに、ハーフィズをわざわざ彼女が一番忙しい時間帯に呼び出したこと。それはもしかしなくとも相当切羽詰った事が起こっていたのではないか。
「のうハーフィズ」
「?なんですか?」
「何の為に呼ばれたのだ?」
考え込んでから視線を戻したジャジャラにすっとハーフィズの瞳が真剣な色合いを帯びる。眼球が右、左とぎょろりと動き周りに人がいないか見渡す。幸いこの時間帯にテラスを利用するスキモノはジャジャラぐらいのようで、ハーフィズは声のトーンを落としてジャジャラに話しかけた。
「ジャジャラにはてっきりもう話が行っていると思ったのですよぅ」
「大事のようだったのか」
「それはこれからどうなるか、なのですよぅ。フィズフィズが呼ばれたのは支部長室の近く…支部の最奥でした」
そこが使われるというだけでキナ臭い匂いが充分する。ヴァーリのギミックに溢れかえったこの支部は言わば要塞だ。その支部長室…玉座の近くという機密守備がばっちりなところでだなんて、やはり大事まで行かなくても結構な事が起こったのだろう。
「そこにはヴァーリさんと珍しくもターラーと妖しげなまっくろくろすけさんともう一人、『サブール』と言う名の人間がいたのですよぅ。サブールさんは怪我だらけで意識も無いような状態です」
「まっくろ……ま、まぁ……で、怪我人、か。だがぬしでなくとも癒し手くらい他にいるだろうに。他の理由か?」
「まあそうだと思うのですけど…怪我を一通り癒した後、サブールさんは目を覚ましたのですよぅ。すると…急に苦しみだして」
「…毒か?」
「多分、違うです。するとサブールさんの近くにいたまっくろくろすけさんがサブールさんを押さえつけて、ヴァーリさんがフィズフィズに【迷いを燃やす炎】(サニティ)を撃てって命令したのですよぅ」
確かに毒だったのなら【迷いを燃やす炎】(サニティ)より下位の【苦痛を祓う炎】(キュアポイズンアンドシックネス)を命じたことだろう。だとすれば、
「狂人、か」
「フィズフィズの白炎で正気を取り戻したサブールさんはヴァーリさん達に置くに連れてかれたのですよ。それ以降は知らないですが…ヴァーリさんには他言無用、と言われたです」
最後に付け加えられた言葉にジャジャラは目を丸くする。対するハーフィズは笑顔の押し売りのようなスマイル0円のままニコニコとしていた。
「余に…言っていいのか?」
「ジャジャラが黙ってればいいことです」
行間に、黙ってなかったら【猛り滅ぼす炎】(フレイムパイソン)だ、と言ったのが聞こえたような気がする。きっと幻聴ではない。
「でも大事になるとしたらきっとその内ジャジャラにも話がくると思うのですよぅ。なんたってジャジャラは…」
どうやら来店した客がいたようだ。店内に視線を投げたハーフィズが席を立つ。頭頂部で二つに分けた黒髪がさらりと揺れ一瞬ハーフィズの表情をジャジャラから見えなくした。
「上位邪霊を打ち倒しティオースの危機を救った黒炎王サマ、ですもんね」
その自分に模擬戦で打ち勝った奴がどの口でそんなこと言うんだ、という言葉も食道の奥に飲み込んだジャジャラだった。





ハーフィズの予言通り、召集はその日の内に来た。書類の山が全て決裁済みに染まり、ジャジャラが休息を入れようと息を付いた瞬間だ。きっとヴァーリお得意のギミックか妖霊を使って見ていたに違いない。眼精疲労と肩こり腰痛がジャジャラに休息を促すが、早急に、という言葉にのったりと歩を奥に進めていく。こういう時こそ自分が黒炎術師であることが憎く思われる。
呼ばれた先は支部長室だ。伝令はジャジャラに召集をかけるだけかけて何処かに行ってしまった。召集をかけるよう命令されただけでどのような内容でジャジャラが呼ばれたかについては何も知らされていなかったのだろう。そしておそらく一般構成員であったことからやはり何かが起こりつつある、ということに確信を深める。
支部長室の扉の前に立つと自動で両開きの扉が音も無くすっと開かれる。支部長デスクには神妙な顔をしたターラー、横で数枚の書類と睨めっこしてやはり難しい顔をしているヴァーリ。応接用ソファに座っているのはハーフィズ、人間、そして黒い外套に身を包んだ堕天使だった(おそらく奴がハーフィズの言う“まっくろくろすけ”だろう)。堕天使が目に入らなければ気付かないくらい気配をさせず動かずに座っているのに対して人間のチラリチラリと支部長室を見渡したりもじもじとしている動きが目に止まる。
「来たか」
ヴァーリが書類から顔をあげる。支部長室に入れば扉はまた自動で閉められた。
「余に何の用じゃ。余は今一仕事終わったばかりで早々に寝所に戻りたいのだが」
 三日間に及ぶデスクワークはさすがに強靭なジャジャラの精神力をも削り取っていた。肩こり腰痛眼精疲労の他に精神疲労にも効く塗り薬なんてものはないだろうか。
「お疲れっスジャジャラ様!しかしすごいっスね〜あんな書類の山、アチキならすぐ逃げ出しちゃうっスよ〜」
「ふふんそうだろう。しかし余にとってはこの程度屁でもな……い……」
純粋なターラーの言葉に脊髄反射でいつものように悦に入って言いかけた言葉が語尾に近くなるほど掠れていく。チラリとヴァーリの方を見ると案の定ニヤリとした笑顔が。
「言質はとったぞ、ジャジャラ」
「くっ…グルか!!」
「<Oル≠チて何スか?食べれるんスか?」
呆けた支部長の言葉にハーフィズが小さく笑いをあげる。しかし他の二人――堕天使と人間は毛筋もこちらの会話に耳を傾けてないようだった。
「まあ享受者なら三日ほど書類と格闘したくらいで参るような珠じゃないだろう」
「アレと闘ったことがないからそんなこと言えるのだ!やってもやっても減らない山・山・山……邪霊の囁きが聞こえそうになったぞ!」
両腕を回して身を抱きしめる。そんなジャジャラにヴァーリの目が妖しく輝きを帯びた。
「先代支部長の時代……俺が最高何日書類の山と格闘したことがあるか、聞きたいか?」
「すいませんごめんなさい別にそんな気は無かったんですワタシが間違ってましたもうそんなこと言いませんゴメンナサイ」
「わかればいい」
そう言ったヴァーリにハーフィズがこっそり合掌する。先代支部長は自分達に一度捕獲命令を出される程の……だ。先程まで格闘していた書類がどのように増えるかなんて想像するだけ恐ろしい。
腹を括ったジャジャラが一人掛けのソファに身を投げるとヴァーリ、そしてターラーまでもが真剣な顔つきに変わる。
「じゃあハーフィズ、始めてくださいっス」
「わかりましたですよぅ」
そう言ってハーフィズの指先がスルリスルリと舞う。複雑な軌跡を描く掌から淡く輝く白炎が噴出し、ハーフィズはその掌をきょときょとと支部長室を見回していた人間にと向けた。ギョッとする人間。逃げようとするよりも早く精神を集中させたハーフィズが鋭く叫ぶ。
「【迷いを燃やす炎】(サニティ)!」
仄かな香気を纏った白き炎が勢いよく人間の頭を包み込む。見た目こそ炎だが、ハーフィズの操る白炎の本質は癒し。ジャジャラの得意とする破壊を旨とした黒炎とは真っ向に対立するものである。
初めこそ炎に驚いていた人間だが、その心地よさに瞳がすっと和らげられ……瞳孔に正気の光が戻ってきたのが見てとれた。
「相変わらずの腕前よのぅ、ハーフィズ」
「まだまだ現役なのですよぅ」
同じ炎術師としてジャジャラが素直に褒めれば、ハーフィズも微笑で返す。今こそ界螺ティオース支部の中核を担っているのだが、享受者として目の前のヴァーリに色々こき使われていた時代は(今もそうなのだけれど)幾度もこのハーフィズの白炎に助けられたものだ。
「あ……ぁ」
「起きたか、サブール」
ヴァーリが彼を『サブール』と呼んだことで今朝のハーフィズとの会話を思い出す。それと同時に他言無用☆破っちゃったら【猛り滅ぼす炎(フレイムパイソン)】、という空恐ろしい約束まで蘇ってくる。ツゥ、と額から冷や汗が流れるが、ジャジャラの様子を気にしている者はここには存在しなかった。
「!ヴァーリ、殿!!私は……」
「最初から話せ。新参者もいる」
それはジャジャラだけを指すのか、それともハーフィズをも指すのか。サブールはいかにも享受者だという二人を見て、傾きながらも視線はヴァーリに固定しながら話し始めた。
「私は、この界螺ティオース支部の一般構成員です。自分で言うのもなんですが…古株で、彼これ二十年、この支部で務めさせてもらっています」
「その割に余はぬしのことを初めて見たが……外回りか?」
「はい。隊商の振りをして各地を回り諜報員から情報を集める…それが私の任務でした」
界螺はこのジャハンナムの裏社会で一番大きいとされる組織だが、全ての権力がたった一つに収束しているわけではない。界螺という名の下一応の結束は誇っているがどちらかというと都市国家の支部単位で権力がまとまって存在していて、そして支部同士が頻繁に情報を交換するほど親密である、ということは稀である。その為支部単位でまるで一つの組織のように各国の事情を探ったり独自の情報ルートを確立するのだ。
そしてその諜報員が、彼である。
「ウァス、シェオール、タベル、ラウ、ファーユ、カリュオン、そして小都市連立地帯を抜け、クスンドを経てティオースに戻るというルートを通り情報を集めていたのですが……途中、カリュオンにて、」
その場にいる全員がその単語に反応する。賭博都市、そして破戒都市と呼ばれるそれは袈唇の本拠地があるとされているところだ。
「いつも通り懇意にしていた情報屋から情報を受け取ろうとしたところ、その情報屋が急に『情報交換は後にしてちょっとやっていこう』と賭博に誘ってきたのです。覚えている限りあの情報屋は仕事中にそんなこと言い出すような奴ではない真面目な人間でした。おかしいと思いながらもあまりにもしつこく誘ってきたのでこちらも折れたのですが……」
「それ以降の記憶が曖昧だ、と」
 言葉を先回りしてヴァーリが言う。サブールはそれにコクリと頷いた。
「賭け事をしていたのは確かです。そのうちもう一回、もう一回と繰り返していく内にやめられなくなって……仕事をしなければいけない、と自分を戒めても、後もう一回ぐらいなら、と言う声が聞こえたような気がして……ずるずる、と………」
俯くサブールの手がふるふると震え始める。
どうやら【迷いを燃やす炎(サニティ)】の効果が切れてきたようだ。元凶を取り除かない限り彼を蝕む狂気が消えることはない。目でヴァーリが合図すると黒外套の堕天使が彼を支部長室の外に連れて行く。
扉が音を立てて閉まるのを確認するとヴァーリがジャジャラ達に向き直った。
「カリュオン依存者だな」
「やはり、そう思うか」
カリュオン依存――ラウの教えに背く賭博が平気で横行しているカリュオンにて賭博を生き甲斐とし、賭博をしなければ酷い禁断症状に襲われるような賭博中毒者達を特に指して言う。カリュオン出身であるジャジャラにとっては馴染み深い単語なのだが、それにしては少々気になることがある。
「しかし妙だ。サブールがカリュオン入りしたのは三週間前。そこで他でもないおまえに聞きたいのだが、」
ヴァーリが一旦口を閉ざす。視線は鋭く、ある意味この問答にはもう既に答えが出ていて、それを追確認するようだとジャジャラは感じた。
「カリュオン依存とは、こんな短期間で進行するものなのか?」
やはり。
「さすがは支部長補佐殿、だの」
ジャジャラの感じた違和感をこの目の前の銀糸の民はきちんと嗅ぎ取っていたようだ。歯列を覗かせるようにニヤリ、と笑えば続けろ、と言わんばかりに顎をしゃくられる。
「まぁ知ってのとおりカリュオン依存は麻薬とか肉体的なものじゃなくて精神的なもの。個人差も多少、いや、短くても一年ほどで廃人寸前まで擦り切れることはあるが……」
脳裏にはあの背徳の都が蘇る。まさにこの世はゴミバケツ、と称したのは何処の偉人だったか。早々に焼却処分した方がいい人間のクズや世界の敵がそこには溢れかえっていた。
「3週間なんつーのは新記録じゃな。賭博に適性があるとしか思えな」
ポコッ
後半のふざけ半分の言葉に対してか、頭上からピコピコハンマーの急襲を受ける。擬音ほど生易しくない衝撃に舌を噛みそうになるが、そこは黒炎王クオリティで頑張った。
「そこまで聞けば充分だ。よくやった黒炎王」
「棒読みか」
「でもそのおかげで大体の推測はできるのですね。イチ、新種のクスリ。ニ、ほんとに賭博に適性があった。そのサン、」
「「邪霊(シャイターン)」」
 ハーフィズとターラーの声が唱和する。
ここにいる誰しもがその可能性を思いついているだろう。あの声は酷く耳に心地よくスルリと精神の間隙に入り込み魂の奥底から甘く鋭く篭絡する。堕落と言う名の禁断の果実。それらが一旦動けば一般人であるサブールの精神など簡単に掌中に収められたに違いない。
しかし…。
「まぁそんなわけで納得納得余の出番も終わったということでああ疲れたもうなんかすっごく疲れた誰がなんと言おうと超絶☆激・疲労さー早く家に帰ろうではな」
踵を返したジャジャラだがずるずるとしたローブの端を二対の足が床に縫い止める。
「根本的解決がなっていないのにどこへ行く」
「いやでもさっきよくやったってヴァーリさん言ってたし」
「それはあくまでその情報についてだ。帰っていいという結論には繋がらないはずだが」
「いやほんとさっきまで書類と格闘してたんだけど」
「ナニそれは大変だ。身体中が酸素と運動を渇望しているに違いない」
「いやいやいやいや身体がこれ以上になく求めているのは休息で」
「こんなところに外回りの任務があるのだが」
v どうやらこの銀糸の民は人の話を聞く気が無いようだ。人の目を見ず明後日の方向を向きながら喋っているのがよい証拠である。 「ってか!!カリュオンでは邪霊の介入は日常茶飯事ぞよ!?そんなんわざわざ調査しに行く意味なんて無いだろ!!」
「ヤな街なのです」
邪霊に否定的なハーフィズが露骨に顔を顰めて言う。その表情に険を嗅ぎ取って冷や汗がダラダラ流れるが、今はそっちを気にしている場合ではない。
「そのとおりだジャジャラ。わざわざ他都市の事情に介入する謂れなんぞない。ましてやカリュオン。しかしわかっているだろう?俺が問題視しているのは別のことなのだと」
「ぐ」
読心術でもできるんじゃないだろうか、この支部長補佐は。
弓張り月のように細まった一対の瞳はこれ以上になく楽しそうに輝く。そう、それはまっかっかなSの輝き。
「どういうことっスか?ヴァーリさん」
狐獣人の支部長がこの辺の攻防を無視した無垢な声をあげる。それに支部長補佐がさらにしたり顔をしたような気がする。
「それはだな支部長殿。邪霊に囁かれたかもしれない人間がティオースの情報部隊の者だということだよ」
「………情報は、特に金になるからの…」
苦虫を噛み潰し過ぎたような顔つきで毒づくように言う。あの街ではなんでも売ることができる。生ゴミから人間まで。そして時には自分自身を。そうして得たなけなしの金を賭博で使い切るのが立派なカリュオン依存者の姿だ。
「じゃあカリュオンの動向を探る必要があるッスね。あ、邪霊がいっぱいいるらしいですし、土地勘とかも必要そうッスから……」
嗚呼何処かでこの展開を予想していた自分がいる。しかしわかっていても防ぐ力がなければ同じだと言っていたのは誰だったか。諦念を思いっきし前面に押し出した表情のジャジャラに向かってニコヤカにターラーは告げた。
「ジャジャラ様、行ってきてくださいッス」
それは支部長の鬨の声。それに逆らう権限を、生憎黒炎王は持っていなかった。









『ジャジャやん物語 1』


2010.1.24.
presented by ogi