4
彼はこの街には珍しい誠実な男だった。
孤児だけで寄り添い合って暮らしている自分の身の上に同情し、幾度と無く便宜を図ってくれたこともあった。彼は享受者の炎術師で、自分は炎術師見習いだったが、年が近いこともあって人並みの友情を結ぶにあたった。
彼は自分の元を訪れるマリカに一目惚れをしていたのだと言う。
しかし年端いかない少女であることなどを考えて、もう少し大きくなってから求婚するつもりだったのだと。だが、これに味を占めた商人達がいつ何時また井戸に毒を流すかわからない。だから、彼女を自分に守らせてくれないか、と自分に交換条件を突きつけたうらめたしさからか、俯きながら懇願した。
自分にそれを拒む術は無い。
自分の中の天秤が、事態に反して冷静に傾いていく。家族全員の命、たった一人の少女の犠牲、どちらが重いか。
彼は誠実な男だ。享受者ともなれば人権も保障されていない孤児を家から力尽くで奪うことなど朝飯前だ。それに、享受者の正式な炎術師ともなれば、自分のほそぼそとした仕送りなど比較にならないくらいまともに生活を送ることが出来る。雨露を防ぐ最低限の住居、質素な食事、ぼろきれのような衣服。どちらが彼女にとって幸せなのか。
そう思うことでこの気持ちに蓋をした。彼女を売り渡すのだという罪悪感から逃げ出した。
マリカは聡明な少女だった。彼女が嫁ぐことによって何が得られ、何が助かるのか、きちんと理解してくれた。別れ際、彼女は自分に抱きついて離れなかった。もう二度と会うことはないかのように、今生の別れを惜しむかのように。それは予感めいたものがあったのかもしれない。女というのは得てしてそういった第六感が優れているものだ。背に回された掌は小さく、腕は右手と左手が回りきるほど長くは無く、慢性的な栄養失調の為に細い。自分自身にその感触を刻み付けるように全身で抱きつき、視線は顔から逸らさず、目一杯自分を感じている。
その態度に何かを感じなかったわけではない。だが、自分こそ彼女をこの家から放逐する存在であった。知り合いとはいえ、少女を他人に売り渡す者であった。小さな少女の身体は軽く、嫁ぐということで有り合せの金で買ってきた安物の香の匂いがする。しかしどうしても彼女の背に腕を回してやることはできなかった。弛緩するかのように両腕は垂れ、膝の上に少女を乗せたまま、時だけが緩慢に過ぎていく。
暗く小さな部屋の中、それを扉の影から小さな影が睨みつけるように見ていた。
あくる朝、やはりと言うかなんと言うか、ハミテの部屋にハミテの姿は無かった。そしてキンドジャールもやることがあるようで姿が見えない。元々キンドジャールとは別行動を旨としていたから問題は無いが、ハミテとは前衛後衛の仲も兼ねて行動を共にする予定であった。こうしてこの街から撤退をかますのに、先日の会話で決裂してからその段取りを話すこともしていない。ハミテは調査を続ける心持で先日の会話からジャジャラの言葉を聞き入れようとしないだろうことは予想できる。が、しかし何も言わずに去るのもジャジャラの少しばかり残った良心の痛む話であった。
「説得に応じそうにもないしのー…だからといって探してきて説得するのもだる……」
寝起きそうそうこんなことを考えなければいけないなんて、爽快な目覚めとは程遠い。しかも堅い木のベッドと麻布のような目の粗い布団のおかげで書類の海と一緒に寝た時と似た不快感。そういえばいつから上等な寝具だとか、そんな贅沢な生活に慣れたのだろう。布団どころか屋根があることすら贅沢な世界だったと言うのに、ここは。
朝食の『モーニング・ジャジャラ様・すぺしゃる』の代わりにお世辞に言っても不味い蒸留酒を傾ける。喉越しやコクなどを考慮しない苦さが喉いっぱいに広がって、今更ながらハーフィズがほんまもんの天使だということを思った。彼女の紅茶に比べればこんなエールはどぶ水どころか下水道の汚水だ。腹にカロリーを送る以外にこんなものを腹に入れるなんて、嫌がらせでしかないだろう。
掌に蒸留酒の瓶を持ち、黒炎を出現させては一気に無に返す。飴のようにぐにゃりと曲がりくねった瓶はそのまま縮むようにして灰一つ残さず消え去った。続いて先日着ていた作業着やらも同じようにして焼き消した。
もはや住人に偽装する必要も無い。この街に入ってきた時と同様夜陰に紛れてこの街を出るだけなのだから、いつもの黒衣でいいのだ。
「…………だるいんだがなー…だがのー…」
自分の決心は変わらないし、相手の決心も変わらない。会話だって平行線のままどちらも譲る気はないだろう…が、やっぱり喧嘩別れ(一方的な)のままというのは気が引ける。一言、一言かけるだけでも十分違うものになるだろうが…
「……………うん」
腕を組んだまま数分。
どうせこの街を出るなら今日の夜と決めていたのだから、それまでやることがないのならいいだろう。
そう思い足を外に向けた。
向かう先は、賭場『天羽屡』。
そこぐらいしかジャジャラはハミテの行きそうな先を知らないし、またカリュオンについてジャジャラにずっとついて来ていたハミテが其処以外に行くあてもないだろう。ましてやダウトと診断したハミテのことだ。他にあてがないという心の間隙から邪霊の囁きが入り込んでないとは限らない。
宿から出て狭い路地を抜ければ琴削ぎ通りの雑踏に飲み込まれる。幾つかの人の流れがあるが、一番大きいのはやはり賭場『天羽屡』に向かう流れだろう。朝から熱心なことで、と皮肉気に思うが、自分自身向かう先がそこなので単なる自虐にしかならない。いや自分は賭博しに行くのではない、そこでうろついているであろうハミテに一言言いに行くだけなのだ、と言い訳してみてもこの虚無感のような鬱屈した何かは消えてくれなかった。
そういえば、と思い出すように昨日のことが蘇る。
自分にとって師に当たる緋色の道化師がおかしなことを言っていたような気がする。
『んな、馬鹿な…!?』
『久しぶり。噂はかねがね聞き及んでいるよ』
いつでも戦闘、というより逃走に移れるよう身構えるジャジャラに対してクラウンはニヤニヤと笑みを浮かべながら挨拶をした。
『君が私のところを逃げ出して一年と六ヶ月二十八日十一時間三十四分二十三秒。いやその三ヵ月前から私と君は会っていなかったから四捨五入して一年と十ヶ月ぶりと言うべきなのかな?』
最初から四捨五入して考えろよ、とツッコミたかったが、その前にクラウンが不在の間に逃げ出したのに何故逃げ出した時からの正確な時間がわかるのかという疑問に口が上手く回らなかった。しかしその疑問はクラウンという存在を考えればすんなりと納得のいくものだった。
『昔から……貴方は、何が何だかわからなかったから…』
『おいおい、折角の再会なのに最初に師にかける言葉がそんなのなんて悲しいじゃないか、××××。これでも随分心配してたんだよ?』
蝋細工のような掌が頬に添えられる。異常に冷たい感触に、目の前の人物が同じ人間なのかどうか、再び疑問が浮かび上がる。
じっと、瞳の中を覗き込まれる。頬に添えられた手は余り力が入っていないというのに、ジャジャラは顔も視線も動かせない。それどころか、その緑と金に輝く瞳に魅入られているだけで全身から力が抜けて虚脱しそうになる。邪眼術に精通した師のことだ。何かしら魔法を使っているのかもしれない。
『……ふゥん?面白いことになっているようだね。今の君ならさぞかし袈唇が肌に合うことだろうよ……うん、私の契約者に変質した人っていうケースはなかったからね……どうしようか』
面白そうに瞳が細まる。契約。契約者。彼に拾われた時の事が昨日のことのように蘇る。己も己の周囲も皆死んだものと思っていた。しかし、生きていた。それを代価と引き換えに拾い上げたのが、この目の前の道化師だ。
『とても興味深いよ。最近、思い出すだろ?私が貰い受けた君の大切だった記憶(モノ)。君との契約が君の変質に伴い無効になっていってるんだ。私は君。君は私の一部。だのにこの変質はそれを断ち切るほどの強い力が働いた……
素直に、むかつくね』
頬に添えられた五指に力が篭る。痛いはずなのに、身体も脳も反応できない。瞳を通じてジャジャラはクラウンに何かを吸い取られるような、クラウンの情動と混線しているような奇妙な感覚を味わっていた。
不快だった。
『それもこれも君が私のもとから逃げ出すのがいけなかったんだよ。私に大切な記憶をとられたままで逃げ出すなんてそんなにこの大切な記憶が重荷だったのかい?もはや自分には無いというのに後ろめたくなるほど重責だったのかい?それとも全てを放り出して逃げれると思うほど君は私を見誤っていたのかい?まあそれも半分は上手くいったのだろうけど、君は私のところに戻ってきた。違うかい?』
独白のような調子で言葉を綴るたびにその笑みは深くなっていく。
大切だったモノ。記憶。
緋色に拾われた時。
頽廃の果実酒を飲んだ時、死んだと思った。自分だけでない。周囲も死んだと思い、自分は死体収集業者に棺桶に詰められた。そのまま時が過ぎれば自然と死に向かっただろう。しかし、天文学的な幸運(あるいは不運)により自分は緋色に発見された。未だ生と死の境をさ迷う自分に緋色は問うた。
『頽廃の試練に耐えうるほど君の支柱になっている望みはなんだったの?』
それに対する答えを、ジャジャラは覚えていない。
ジャジャラの過去の記憶は享受者になる以前のことを殆ど残していない。思い出せないというよりも、あったはずなのにすっぱりと無くなっているという表現が正しい。もし記憶を箪笥のような形に例えるならば、その部分だけ引き出しが取り払われているような、そんな。
『……完全に思い出したわけではないということか。だが、いずれ完全に取り戻す。嫌だな、苛立つな。この件が無かったら今すぐにでも君からまた奪ってやるというのに…』
『この、件…?』
訝しげな自分の様子に、ああ、と頷く。
『いつものことだよ。いつもどおりのシマ争い。退屈で、怠惰な、いつもの繰り返し。刺激を求める袈唇の馬鹿どもの暇つぶし。今回はまだ面白い趣向かな?《孤島》といえども他人のシマに手ェ出すんだもの。でもそのためにこう駆り出されるのはとても迷惑。不愉快だ』
遠い記憶、いや、知識として思い出す。目の前の袈唇の幹部は珍しくカリュオンにシマを持たない幹部だった。言ってみれば実力だけで袈唇の上層部に喰らいついている、ある意味金とコネで幹部をやっている連中よりも厄介な存在である。
自分の心情を、表情こそニタニタとした笑みからずっと変わっていないが、吐き捨てるように呟いてからクラウンはジャジャラの額を掴んでいた手を離す。あげた前髪のせいで五つの赤い跡がくっきりと見えているだろう、今着ているのがいつもの黒いローブではなく小汚い作業着なので、額を隠す為のフードもなく、しょうがなくサイドの前髪を前に持ってくる。
『ああ、そうした方が懐かしいね。昔に戻ったようじゃないか』
『………………』
不意にクラウンの顔が近くなる。後ずさろう、と思ったが、その緑に輝く瞳に見入られて足は動かない。
『さて、私は行くよ。面倒くさいけれどこれも仕事のうちだ。本当に面倒くさいけれど。でもこの件が終わったら真っ先に君のところへ行く。フフフ楽しみだね。予定外だけど面白いよ。今のまま人生を謳歌したければ、死ぬ気で逃げ回ることだね』
ポン、とジャジャラの肩をはたき、クラウンは上り階段の方へ消えていった。これが夢オチだったらどんなにいいことか。これは夢じゃ、と十回ほど呟いてから、ジャジャラも『天羽屡』の捜索に戻った。
「……うーむ、とりあえずはティオースに帰ったらまた速攻逃げださにゃならんことくらいか……」
クラウンが自分を追いかけてくるとなると、ティオースも安息の地ではなくなるということだ。いやそれ以前からジャジャラにとって安息と呼べるかどうか疑問なのだが(銀髪鬼とか狐支部長とか腹黒天使とか銀髪鬼とか銀髪鬼とか)、生活拠点とするにはかなり理想的な土地であった。地位、仲間、土地柄。ティオースを訪れてたった一年でここまで充実したものを手に入れれた。このような幸運は後にも先にもこれっきりであろう。
「楽しい日々だったのー…」
慌しかった一年間に思いを馳せながら歩いていれば、悪趣味な賭場まですぐだった。亡霊のような人々が列をなして吸い込まれていく。自分もそれに溶け込むようにして入っていく。何日も監視をしていたわけではないので連日に比べて人の入りが増えただとかそういうのはわからないのだが、先日と比べて賭場に目に見えての変化はない。あったらあったでとんずらこく気満々ではあるが。
ハミテが途中で興味を持っていたコーナーを中心に見て回る。特徴的なハミテの三つ編み頭が埋もれていないがつぶさに見渡すが、どれもこれも同じような腐った魚の目の持ち主しかいない。人ごみを通り過ぎて二階へあがる。
しかし二階にもハミテの姿は見えなかった。二階の趣向は元々ハミテの好むようなものではない。
だとしたらもっと上だろうか?三階には質屋、そして四階以降は関係者以外立ち入り禁止となっていたことから経営側の事務所などがあるのだろうと予測している。ハミテは刀士である為、隠身の素養が高い。彼ならそこに忍び込むことも可能ではあるだろうが……そうなるとジャジャラが彼を追うことは難しくなってくる。
そもそも自分はハミテに一言かける為に来た。しかしそれも自分が納得できるようにはからっているだけで、彼の予定や機嫌などを全く無視したものである。それも含めてここまで来てながらも、もういいんじゃないかなーと思い始めている。探すの、めんどくさいし。
「帰るかの」
そうと決めたら即断即決、優柔不断は亡国の元である。くるりと踵を返して元来た道に逆戻る、が、その足は一歩踏み出した途端に嫌な予感で硬直した。
一階へ続く階段の前に仮面をつけた従業員が5人、客の通りを妨げないようにして居る。
それだけなら別段なんでもない光景のようだが、表情の見えない仮面の奥からフロアにねめつける視線を送っているのを見ると、この賭場にとってよろしくない考えを抱いているジャジャラにとってはなんとも言い難い冷たいものが背筋を伝う。
窓――テラスでもなんでもいい、そこから【噴出し動かす炎】(ファイアジェット)で脱出するか?――いや、目立つのはよくない。ただでさえここは界螺カリュオン支部に近いし、ここ事態紫杯連の息のかかった場所かもしれない。では素手で登攀?――ターラーじゃあるまいし、ムリ、絶対ムリ。そもそも人間は垂直な壁を素手で登ったり降りたりできない。
「余、重力にだけは膝を折ってもいいと思ってるぞよ…」
【噴出し動かす炎】(ファイアジェット)はさておいて。
フロア全体を観察してみると、従業員の配置がそれとなく警戒態勢であることがわかる。三階へと続く階段の前にも従業員が固まっているし、それだけでなく単独で動いている従業員がおらず、全員二人以上の単位で行動している。
ほとぼりが冷めるまで、身を隠すか。そう結論付けてクラウンと密談した周囲の死角にあたる場所へ移動する。腕の多い人間のオブジェは相変わらず異彩を放っている。オブジェ一つ一つの表情は個体ごとに違っており、全体が灰色で統一されているもののその生々しさは本物の人間かと思わせるほど真に迫るものがある。この街のことだから、もしかすると本物の人間なのかもしれない。だが腕の多い人種などジャジャラは知らないし、こんな精巧な腕を生やす獣甲も聞いたことが無い。邪霊に囁かれて腕が増えちゃったのかなー、と嫌な想像をするが、あえてそれは考えない方で、と臭いものには蓋をした。
それにしても質感が滑らかそうだ。表面にはあまり光沢は無いが、人間の肌を表現するにはちょうどいいキメの細かさが見て取れる。金属かなー、と思い、指で突っついてみようとする、と……
ガッ!!
「!!??」
悲鳴を口の中で噛み殺す。オブジェの三対の腕が急に動き、ジャジャラの身を絡め取った。動かないものと信じきっていたジャジャラは完全に不意をつかれ、為す術も無く拘束される。ヘサーム達ならば逃げることもできただろうが、俺様何様ジャジャラ様では身のこなしのレベルが違う。おまけにどんな力が働いているのか、腐っても享受者であるジャジャラが本気で抵抗してもその拘束は緩むことが無い。
「ティオースのジャジャラ様、ですね?」
空しくオブジェと格闘しているジャジャラに、後ろから声をかけてくる。仮面の従業員がジャジャラがオブジェに捕まった瞬間こちらに気付いて近づいてくることは察知していた。しかし腕が動かせない状態で炎術も行使できず、多少攻撃的に脱出を図ることもできない状況で、ジャジャラにできることはただただ焦燥を募らせることだけである。
「支配人がお呼びです。5階の支配人室にご案内いたします」
ああやっぱり馬鹿と偉い人は高いところが好きなのね、と自分を棚に上げて思った。
「ようこそいらっしゃいました黒炎王殿!歓迎いたしますよ!」
ニコニコ、いや、ニヤニヤと薄笑いを浮かべて男は言った。
両腕を仮面の従業員に拘束されたまま通された支配人室は一階や二階のフロアの趣味の悪さに反して落ち着いた趣きで統一されていた。世間一般では品の良いという印象を受けるのだろうが、ジャジャラとしてはもう少し華美さが欲しいところである。毛足の長い絨毯の上を歩く度、そういった取り留めの無い思考が脳裏を掠めた。
だって、余、ゲームオーバー寸前じゃもん。
単独行動=死という方程式が完成したのを感じた。これも支援型魔術師の宿命か、と心の中で憂えるが、自分に限ったことのような気もする。
「歓迎されているようには見えないし、される覚えもないんだがの」
とぼけるように言ってみると、支配人室の豪奢なデスクに座る男――恐らく彼が支配人であろう、見た目三十代の薄茶の髪を後ろに撫で付けた優男が呵呵大笑した。
「異なことを仰る!この私、〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムの賭場をこそこそと嗅ぎ回っておいてそのような言い訳が通じるとでも?」
「赤き…なに?」
「…………」
誰ソレ余知らない。
小首を傾げた黒炎王にムンタキムと名乗った男はピクリと米神を疼かせた。
「フフ、フ…さすがはティオースを襲った未曾有の大災害を納めた英雄ということか…しかしこの私、次期界螺カリュオン支部支部長の〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムの武勇伝を聞けばいくら黒炎王と言えども…」
「ってか、そなた、享受者?」
「…………」
あ、なんか目に見える程雰囲気が落ち込んだ。拘束している仮面従業員の方からなんか気遣いのオーラも見える感じ。
しかし米神を揉んでから面を上げたムンタキムは先ほどの余裕を取り戻していた。
「フフン、まぁいいですよ。私の名声はこれから更に高まるのです。その叩き台に貴方も加わるのですから」
「まぁそれはおいておいて」
「…………」
「先程、界螺カリュオン支部、と言ったの。この賭場は界螺の支配領域なのか?そして何故界螺が余を拘束するのじゃ?」
「間諜に質問の権利など無いのですがね、ティオースの英雄に敬意を表して答えてさしあげましょう。確かにここはこの私〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムの経営する賭場ですから、広域的に言えば界螺の領域と言えるでしょう。しかし!この〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムがあのごくつぶしの下にいると思われるのは心外ですからそこのところを留意しておいていただきたい。この!カリュオンの!赤き!!炎!!!ムンタキムの私有するところであると!!」
え、俺そんなこと聞いてない、と隣から小さい声が聞こえた。
恐らくこの仮面従業員も界螺カリュオン支部の構成員だろうと予測付ける。上司が選べない下っ端というのはいつどこでも大変なものだ。
「ゴ立派デスネ」
「フフフ偏に私の才覚故のことですからね。もっと褒め称えていただいても結構ですよ………と、それから貴方を拘束した理由ですけどね、確かに!界螺としては界螺ティオース支部に所属する貴方を拘束する理由はないです。まぁカリュオン支部に挨拶も無しに我らがシマで行動しているのは考え物ですがね」
ムンタキムがデスクから離れてジャハンナムでは珍しいガラス張りの窓の方へと近づく。こちらからでは彼の表情が見えなくなったが、ニヤニヤとした薄ら笑いが浮かんでいるだろうことは想像がついた。
「そう、私達にティオースの同胞を拘束する理由はない。しかし!その同胞がその界螺を裏切っていたとしていたら、どうします?」
「…なんのことじゃ?」
また、裏切り、か。
どうしてだかこの前からこの言葉が妙にジャジャラに纏わり付いてくる。しかもジャジャラの与り知らないところで進行するそれは、まるで不可思議な呪いのようだ。
呪い。
ジャジャラの脳裏に赤髪の道化師が浮かんで消えた。
「しらばっくれても無駄ですよ!我らが界螺に名を連ねる貴方が、ティオースの英雄である貴方が袈唇の間諜であることをこの私〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムは知っています!」
「………は」
上手く、息が継げなかった。この男は何を言っている?
あの雨の日、師の不在をついて身一つでカリュオンから逃げた自分に、何、を?
もしかして、ここでクラウンと密会していたのを見られたのか?それならば勘違いも有り得そうだが、目の前の男がクラウンを知っており、またクラウンが彼に密会を知られるようなへまをするとは思えない。
「…何を…言っている?余は袈唇などではないぞ?」
「往生際が悪いですね。貴方が三年前までこの街で袈唇に所属していたことなど知っているのですよ。間諜風情が何故わざわざ目立つように英雄などやっているのか甚だ理解できませんが、この〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムの目を欺こうなどとは自惚れにもほどがあります」
「誰から聞いた?」
「フフ、その質問、認めるのですね!貴方が袈唇の間諜であると!しかしその質問には答えられません。答えるとすれば、この私〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムの如才ない抜け目の無さが告げたと申しておきましょう」
「誰がそのようなこと申したのだ?」
「ですから…」
「答えよ」
「…………」
ムンタキムが気圧されたように後ずさる。拘束している仮面従業員も、ジャジャラのどこか抜けたような雰囲気が一変したのに気付いて拘束を強める。
「……お喋りが過ぎてしまったようですね。これ以上袈唇の間諜に話すことはありません。VIPルームに連れてお行きなさい」
ジャジャラを引く拘束の力が強まる。
だがジャジャラは踏みとどまって、異様にギラついた緑眼でムンタキムを射抜いた。
「…余をどうするつもりじゃ?」
自身の処遇について聞いてくる虜囚にムンタキムの溜飲が少しばかり下がった。
「フ、間諜など普段は即座に処刑するところですがね、英雄とまでなった貴方です。精々袈唇との交換材料に使わせていただきます。貴方ほどとなれば袈唇の大幹部とも繋がっているのでしょう?フフフ、悪く思わないでくださいね。この私〈カリュオンの赤き炎〉ムンタキムが界螺カリュオン支部、いえ、賭博都市カリュオンを席巻する栄えある第一歩として使われるのですから」
流暢なムンタキムの弁舌に、ジャジャラは、そうか、とだけ残して仮面従業員に連行されていった。
窓際からデスクに戻る。ジャジャラと仮面従業員が消えたこの支配人室はいつもの通りの静寂に包まれている。一息ついてから、無性に喉が渇いたので使用人を呼ぶベルを鳴らした。
椅子に深く腰掛けてから、ムンタキムは思い出した。あれは、あの雰囲気は普段ぼんくらな支部長が時折見せたものに似ていた、と。
そしてそれは格上の享受者が放つ威圧感であると、ムンタキムは最期まで気付けなかった。
『ジャジャやん物語 4』